バタイユ。
もうね、名前がかっこよすぎるんですよ。
嫉妬してしまうほどの響き。バタイユって口に出すだけで、なんだか禁じられた棚の本を手に取るような気分になる。
そんな名前の持ち主が書いた処女作は、やっぱりただものではありませんでした。
なんと、エロ小説です。
しかも、ただのエロ小説じゃない。ものすごく哲学的な、どこまでも深い穴に落ちていくようなエロ小説。高校生のときに読んでいたら、きっとなにかが歪んでいた。それぐらいのインパクトと、よくわからないかっこよさがあります。
処女作100プロジェクトでいままで10冊ほど読んできましたけど、処女作が自費出版(というか地下出版)だったのは、この本が初めて。
そして、物語のなかで「処女」を散らすのも、たぶんこの作品が最初。
あきらかに、自分のなかの「小説ってなに?」という定義を、思いっきり広げてくれる一冊でした。
「便所の神」が書いた禁書
「なんでこんな本を偽名で地下出版なんかしたの?」
そりゃそうなりますよね。
1928年、バタイユがこの処女作を世に出したとき、彼は「ロード・オーシュ(Lord Auch)」という偽名を使いました。
オーシュ卿。
なんだか高貴な響きですけど、じつはこれ、フランス語の俗語で「便所の神」みたいな意味を込めた名前。権威をおちょくるのが、もうペンネームから始まっている。
地下出版にした理由は、当時バタイユがフランス国立図書館の司書だったから。つまり、お堅い公務員です。乱交、殺人、宗教冒涜てんこ盛りの小説を、本名で出せるわけがない。
1928年といえば、第一次世界大戦が終わって10年。
世界恐慌の前年。ヨーロッパはつかの間の平和を謳歌しつつも、戦争の傷跡がまだ生々しくのこっていた時代。既存の価値観がぐらぐらに揺らいぎまくり。
バタイユは、その揺らぎのまっただなかで、道徳も権威も「くそっくらえ」と叫ぶような本を書きました。
初版はわずか134部。刊行後まもなく押収されています。
バタイユの実名でこの本が出たのは、彼が死んだあと、1967年のことでした。
死とエロスが手をつなぐ瞬間
「エロ小説なのに、なんで死が出てくるの?」
ぼくもそう思いました。
本書は、主人公がシモーヌという少女と出合い、性的な目覚めを通して、堕ちていく物語です。
ヒロインのシモーヌは、いわゆるファムファタル。
「運命の女」ってやつです。出会った男を破滅させずにはいられない、抗えない魅力を持つ女性のこと。映画でいえば危険な美女。シモーヌはまさにそれを、もっと過激に煮詰めたような存在です。
じつはこの作品、10年以上前に一度手に取っていました。大学生のとき。でも最後まで読まなかった。マルセルがタンスの中でおもらしするところまで読んで、「なんだこれは?」と衝撃を受けて、そのまま放置してしまったんですね。
そして今回。
ちゃんと最後まで読んでおどろきました。
殺人が出てくる。
死があふれている。
絶頂と死が、隣り合わせに並んでいる。
弱虫ペダルという自転車レースの漫画に、真波山岳というキャラクターが出てきます。
彼は幼いころから体が弱く、ずっと病院のベッドの上ですごしていました。外の世界を窓越しにしか知らなかった少年が、あるとき自転車に出会う。ペダルを限界まで踏み込んで、心臓がはちきれそうになって、肺が焼けるように痛くなって、もうダメだってところで風が吹いた瞬間に、「生きてる」と感じる。
そして彼は、その感覚を求めて山道を駆け上がるクライマー(山登りに特化した自転車乗り)になる。
なぜか、彼を思い出しました。
痛みと喜び。
苦しみと恍惚。
死と絶頂。
バタイユは、その極点を見せてくれる。「生きるってこういうことかもしれない」と思わせる、すさまじい熱量がそこにあるんです。
目玉が世界をつなぐ
「眼球譚って、なんで『眼球』なの?」
これがね、読むとわかるんですけど、モチーフの重ね方が本当に見事なんです。
目玉。
金玉。
卵。
ぜんぶ丸い。ぜんぶ白い。ぜんぶ剥き出しで、ぜんぶ壊れやすい。
バタイユはこれらのイメージを、物語のなかで何度も重ね合わせていく。卵を割る行為と、目玉をえぐる行為が、同じ手触りで描かれる。それが気持ち悪いのに、どこか美しい。
作家として、これは勉強になりました。ひとつのモチーフを物語全体に貫通させる技術。「目玉」というたったひとつのイメージが、作品世界ぜんたいに統一感を与えている。
処女作でこれをやっている。それだけで、もうとんでもない。
穢れの美学 ── 大空まで穢しつくす
「こんな小説があるのか」
読みながら、何度そう思ったことか。
エロ小説というカテゴリに入れるのは、ちょっと違う気がする。何かが違う。
この作品は、穢れに「徹して」いるんです。穢れることを、とことん突き詰めている。
こんな言葉があります。
「私が好きなのは《穢らわしい》と見なされているものだけだった。逆に、通常の放蕩では充たされることすら叶わなかった、なぜかといえばそれはひたすら放蕩を穢すだけで、いずれにせよ、高尚な完璧に清潔ななにものかは無疵のまま残されるからだ。私が味わう放蕩は、私の肉体と思考だけではなく、その間に想像しうる一切のものを、すなわち、ただ舞台装置をつとめているだけにすぎない星輝く大空までも穢しつすのだ。」(生田訳のp.79)
う~む。
「大空までも穢しつくすのだ。」
すごいでしょう。
ふつう、穢れは隠すもの。汚いもの。見て見ぬふりをするもの。でもバタイユは、穢れをどこまでも推し進めることで、逆に一種の「崇高さ」に到達している。
汚いものを汚いまま描く。それが逆に、星空みたいに壮大になる。
美しさって、清潔なところだけにあるわけじゃないんだな、と。
4つの版があるよ
じつは、この作品には4つの版があります。
まず1928年の初版。「ロード・オーシュ」名義で、出版者の名前も伏せて地下出版されたもの。
次に「新版」。「セビーリャ 1940」と偽装されていますが、実際は1947年に刊行。ハンス・ベルメールの版画6点つきで199部。1951年には裁判で有罪になっています。そう、有罪。本が罪に問われた時代があったんです。
ほかにも2つありますが、重要なのは上記の2つ。
日本語では、河出文庫の『眼球譚[初稿]』(生田耕作訳、2003年)が1928年版を底本にしていて、ぼくはまずこれを読みました。
そのあとに中条省平訳『目玉の話』を読みました。こちらは1947年新版が底本です。
生田耕作訳は名訳と言われていて、三島由紀夫も絶賛したそうです。それを先に読んだので、中条訳は最初ちょっと違和感がありました。でも10ページぐらい読むと慣れた。文体って不思議ですね。
初稿は、挑発的で生々しい豊饒さがある。
新版は、簡潔で洗練されている。
ぼくは初稿が好きです。性的な挑発がむきだしで、熱がこもっていて、処女作にふさわしい荒々しさがありますから。
文章修行の現在地
さて、ぼくはいま1月末の乱歩賞応募に向けて書いています。
モチーフは「異端審問」。
並行して高野和明さんの乱歩賞受賞作『13階段』も読みました。おもしろい。2日で読み切った。満場一致で受賞が決まったというだけあって、乱歩賞のお手本のような本でした。
その高野さんが書いた『乱歩賞作家の創作術』も読みました。小説家になる前は脚本家だった方で、デビューに必要な実践知が満載。今日読み終わったので、明日からアクションに移していきます。
この本で薦められていた立花隆『「知」のソフトウェア』もさっそく読み始めています。資料の扱い方を体系的に学べる本です。
あとは、同じく乱歩賞受賞作の『QJKJQ』が個人的におもしろかったので、この路線で乱歩賞に近い作品を探したら、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を薦められました。いま100ページまで。正直まだおもしろさがわかっていないけど、もうちょっと読み進めてみます。
執筆のほうは、朝起きてすぐに1〜2時間。これから少しずつ、集中して考える時間を増やしていきます。
まだアイデアがつかめていなくて、執筆に進めていないので少し焦っています。
でも、焦りは禁物。
バタイユは処女作を出すまでに、司書として働きながら静かに書いていた。偽名を使ってでも、書かずにはいられなかった。
その熱量を、ぼくもちゃんと持ち続けたい。
まずは異端審問の資料に当たっていきます。