178ページ。
新潮文庫版の『悲しみよ こんにちは』は、それくらいの厚さしかありません。カフェで頼んだコーヒーが冷めるときに読み終わる、そんな薄さです。
なのに、読み終えたとき、ぼくは映画の名作を観たあとのような満足感につつまれていました。
書いたのは18歳の女の子。
あなたが18歳のとき、何をしていましたか。ぼくは、たぶん、何も考えていませんでした。
心のうごき
ストーリーは、驚くほどシンプルです。
南仏の別荘。父と娘。父の恋人が2人。娘が、ちょっとした企みをする。それだけ。
あらすじを3行で説明できてしまう。
ぼくはずっと、小説というのは「何が起きるか」で決まると思っていました。
だから設定を凝る。世界を作り込む。「百科事典としての小説」みたいなものを構想していたりもします。読者が物語のなかで知識をたのしめるように、こっそりと詰め込んで。
でも、サガンを読んで、はっきり分かりました。
読者は、知識や事件を読みたいわけじゃない。
人間の心が動く、その瞬間を読みたいんです。
セシルという主人公がいます。
投げやりで、妙に大人びていて、悪知恵がまわって、大人たちを手のひらで転がそうとする。かと思えば、びっくりするくらい幼い。
未熟さと狡猾さが、同じ体のなかに同居している。
この矛盾、ティーンエイジャーの危うさこそが、この小説の心臓です。事件じゃない。
過去のわたしと、いまのわたしが、同じ声で喋る
「で、具体的にどこがすごいの?」
そう思いますよね。ぼくが一番うなったのは、語りの技術です。
物語は、過去を振り返るセシルの一人称で始まります。
ところが、回想を続けているうちに、いつの間にか視点が変わっている。過去を「思い出している私」ではなく、「その場で生きている私」になっている。
継ぎ目がありません。
「いま回想している大人のセシル」と
「あの夏の17歳のセシル」が
ひとつの声に溶けている。
過去形と現在形が、境目なしにつながっていく。
これが何を生むか。
体験の当事者としての没入と、あとから振り返る悔恨や自己批評が、同時に働くんです。読者はセシルの魅力に引きずり込まれながら、同時に、彼女の自己欺瞞も見抜いてしまう。
二重の読みを、強制される。
語り手の信頼性が、ゆらゆらと揺らぐ。
うーむ。
これは盗みたい。とっておきの技術。
しかも、一章ごとの引きが異様に巧い。ページを閉じるタイミングを、こちらに与えてくれないんです。「あと少しだけ」が何回も続くようになっています。
巨匠の「最初の一冊」を読むということ
処女作100というプロジェクトをやっています。世界の文豪100人の、デビュー作だけを読む。
なぜ処女作なのか。
そこに、その人がまだ「何者でもなかった頃」の熱が残っているからです。
技術は荒削りで、後年の名作に比べれば粗さもある。でも、その粗さのなかに、のちの全作品の設計図みたいなものが埋まっている。ぼくはそれを見つけにいく作業を、勝手に宝探しと呼んでいます。
サガンの場合、その宝は「心理描写」だと思います。
彼女は、まだ言葉になっていない感情に、次々とことばを与えていきます。
「自分も確かにそんなことを感じたことがある。でも、言葉にできなかった」
読者にそう思わせる。曖昧なままだった感覚をすくいあげて、文章として定着させてしまう。
それが文学なのだと思います。
設定を作りこむよりも、人の心のひだを言語化できるか。ぼくの文章は、まだそこに届いていません。
広告ゼロで100万部という異常事態
出版当時の話も、なかなかすごい。
出版社は、ほとんど宣伝をしなかったそうです。
それなのに口コミだけで売れはじめ、1年後には発行部数が100万部を突破。批評家賞も受賞。25か国語以上に翻訳され、ハリウッドで映画化まで実現しました。
映画では当時17歳だったジーン・セバーグがセシルを演じ、彼女のショートカットは「セシルカット」と呼ばれて一大ブームに。
いやはや。
すごすぎませんか。
なぜ、デビュー作が一番有名なのか
ここでひとつ、気になることがあります。
サガンは『悲しみよ こんにちは』だけの作家ではありません。その後も数えきれないほど書き続けた、多作な人です。
なのに、いちばん有名なのは、やっぱりこの一冊。
なぜでしょう。
ぼくが思いつく理由は、いくつかあります。
ひとつめ。「18歳が書いた」という事実そのものが、作品の一部になっているということ。もし同じ小説を40歳で発表していたら、ここまでの衝撃はなかったはず。若さが、内容と不可分に結びついていた。
ふたつめ。デビュー作は、その作家の「発見」とセットで語られる。世間は新人を発見するのが大好きです。2作目以降は、すでに知っている人が書いたものになる。同じ驚きは、二度は起きません。
みっつめ。デビュー作には、作家が人生をかけて溜めこんだものが一気に注ぎ込まれます。18年ぶんの感受性を、一冊に叩き込む。2作目は、たった1年か2年ぶんの蓄積で書くしかない。濃度が、そもそも違う。
どれが正解かは、分かりません。
ただ、少なくとも「作品の出来だけ」では説明がつかない。そういう気がします。
天才は、天才として生まれたわけじゃない
実生活のサガンもまた、小説の主人公みたいな人でした。
黒いシンプルなドレスでナイトクラブに現れ、大金を賭けてギャンブルをし、スポーツカーを飛ばし、煙草を吸って、ウイスキーを飲む。
いつも男性たちに囲まれ、マスコミに追いまわされる。「サガン現象」という言葉まで生まれました。
いまで言えば、自分でニュースを作り出すインフルエンサーみたいな存在でしょうか。
ちなみに「サガン」は本名ではありません。本名はフランソワーズ・クワレーズ(Wikiではコワレって書かれています)。ペンネームは、愛読していたプルースト『失われた時を求めて』の登場人物から取ったそうです。
彼女が若い頃に読み込んでいた本の顔ぶれを見ると、背筋が伸びます。
14歳でカミュ。
16歳でランボー。
17歳にジッド。
それらは作家としての羅針盤であり続け、文学のために生きようと決意させるきっかけになった。
つまり、あれは偶然の成功ではなかった。
18歳で現れた天才ではあるけれど、その才能は、読書と文学への強い意志によって育てられていました。
天から降ってきたわけじゃない。積み上げです。
それで、ぼくはどうするのか
ここからが、自分の話です。
ぼくの最大の弱点は、「作品を完成させられないこと」。
なので、しばらくは長編ではなく短編を書くことにしました。
10日で1本の短編を完成させる。
そのために、一日ごとの作業内容まで決めました。
ちなみにSF作家のレイ・ブラッドベリは、1週間に1本の短編を書くことを勧めています。10日でもヒィヒィ言っているぼくとは、格が違いますね。ちなみに、彼の読書術もおもしろいので、こちらの記事に書きました。
あとは実行するだけ。これがつらいのですが。
そして、1日2時間。小説を書く時間が、なかなか習慣になりません。
というのも、妻が病気で仕事を続けられなくなりました。だからぼくはいま、仕事を探しています。
個人開発しているアプリの売上が伸びてくれればいいのですが、そう都合よくはいきません。だから、いったん働きに出ようとしています。
はやく小説家としてデビューしたい。でも、こればっかりは時間がかかります。
というか、社会保険料が高すぎる。涙が出るくらい。
時間というのは、結局のところ自分で生み出すしかない。頭では分かっています。でも人生のほうは、こちらの都合などおかまいなしに追いかけてきます。
まぁ、なんとかします。
さて、次は何を読もうか。
じつはサガンは、トルーマン・カポーティとも交流があったそうです。
そんな縁を知ると、次はカポーティを読んでみたくなる。
文学は、こうして一冊から次の一冊へとつながっていきます。その連鎖そのものが、読書のいちばんの楽しみなのかもしれません。
独創:★★
凄味:★★★★
洗練:★★★★★
構造:★★★
後味:★★★★★